【連載】演劇を通じて人々に伝えたいもの-俳優・脚本家・プロデューサー岩瀬顕子…中山淳雄の「推しもオタクもグローバル」第90回

中山淳雄 エンタメ社会学者&Re entertainment社長
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華やかなる俳優の世界、そこは世俗とかけ離れた「芸の世界」として人を惹きつけ続けるが、同時に大手芸能事務所のコネや力関係も強く働き、大人の政治がうずまく世界でもある。そんな世界でも「職人」は存在する。何か表現したいものがあり、ときにテレビを使い、ときに映画を使い、ときには小さな劇場を使って、その先にいる視聴者に対して何かを訴えかける。実は場としては様々な手段がある中で、やっていることは作家や映像監督、漫画家のそれと大きくは変わらないのかもしれない。小・中学校に暗い暗黒時代を抱え、その克服のためにも海外に飛び出た経験をもとに、この世界に足を踏み入れた岩瀬顕子氏は、俳優でありながら、自ら劇団を主宰し、脚本も書き、どんな小さな舞台でも役者として立ち、時には地元振興のための活動に邁進する。今回はいかに演技の世界で「職人」として彼女が活動してきたかをインタビューしていった。

 

【目次】
米国映画でジョニー・デップと共演、水俣病を訴えた『MINAMATA』で世界の役者に
小学校時代の虐待から自信喪失、高校浪人へ。心を埋めてくれた海外の留学経験
高校・大学で米国生活、メキシコシティで出会った劇団の原点
食えない役者の世界でNHKアナウンサーと兼業でわき目もふらずにキャリア邁進
自分の劇団を立ち上げ、日米のドラマオーディションに見る芸能界の負
ドラマセラピー、“文化不毛の地"栃木に演劇文化を根付かせる

 

■米国映画でジョニー・デップと共演、水俣病を訴えた『MINAMATA』で世界の役者に

――:自己紹介からお願いします。

岩瀬顕子(いわせ あきこ)です。俳優・脚本家・プロデューサーをやっております。

――:岩瀬さんとは同郷のつながりがあって取材をさせていただきました。

はい、どちらも栃木県出身で、中山さんが宇高(宇都宮高校)、私が宇女高(宇都宮女子高)というかなり近いところに通っていたんだねと、能登のアジアテレビドラマカンファレンスで初めてお会いしましたね。

――:実は女優さんの取材というのは初めてなんです。

私はどちらかというと“役者"ですけどね。“女優さん"というと華やかなイメージがありますが、私はちょっと土臭い職人的な響きがある役者という言葉が好きです。

――:これまで数々の映画、テレビドラマ、舞台に出演されていますが、出演された中で一番有名になった作品はどれですか?

おそらく映画の『MINAMATA-ミナマタ-』でしょうね。ジョニー・デップさんが水俣病を取材したアメリカ写真家W・ユージン・スミスを演じた作品です。セルビアとモンテネグロで1か月半撮影してきました。

――:ハリウッド作品は役者にとってもだいぶ撮り方や撮影条件が異なりますよね。

トレーラーもあるし、食事はケータリングで用意されてますし、週休2日制だし、すごくしっかりした体制で撮影されてますよね。

――:1971年に「ライフ」誌に掲載された水俣病の“ピエタ"と呼ばれた写真にまつわる実話を元にした映画ですね。真田広之さん、國村隼さん、浅野忠信さんら日本人の有名俳優も立ち並ぶなかで、岩瀬さんも水俣病患者となった娘の母親役で登場しています。ハリウッド俳優との共演はかなり大変だったんじゃないでしょうか?

いや、ジョニー・デップさんは物凄く紳士的な方でしたよ。エキストラの方々にも丁寧に接していて、一緒に仕事ができてよかったなと思える方でした。

お蔵入りにならなかったことが本当に良かったです。そんな中でも2021年アカデミー賞でファン投票による新部門「お気に入り映画賞(favorite 2021 film)」で3位に選ばれました。

※本作は2020年2月にドイツで上映されてから、コロナの影響があり(ジョニー・デップ氏の離婚騒動も影響して配給会社が変更になったとの噂もあった)日本で2021年9月、米国で2021年12月とかなり遅れての上映となった。世界興行収入2百万ドル、日本興収2.5億円。

  

■小学校時代の虐待から自信喪失、高校浪人へ。心を埋めてくれた海外の留学経験

――:昔から役者/女優になろうと思っていたんですか?

いや、そんなことはないです。バレエは習っていましたが、お芝居自体は小学校の学芸会と、宇女高(宇都宮女子高校)で英語劇をやった時、あと高校留学中にミュージカルをやったくらいですからね。

――:勉強は昔から出来たんですか?

いや、英語だけは得意でしたが、そんなにですよ。言ってなかったと思うんですが、私、実は高校受験で失敗して1年浪人してるんです。

――:え!?中学生で浪人ってあまり聞いたことないですね。

ですよね。実は4人兄弟の末っ子で兄姉が皆、宇都宮高校/宇都宮女子高校なんですよ。そのプレッシャーもあって。

――:エリート家庭ですね、、、!

いえ、そんなことはないんですけど笑。実は小学校高学年で担任の虐待を受けまして…。小学校低学年までは学級委員長だったり、明るい子だったと思うんですが、そのあたりで性格がガラリと変わりました。

――:虐待!?

そうですね、まあ時代も時代なので言いにくいんですが、精神的にも身体的にもだいぶ追い詰められてました。本当に毎日のようにビンタされましたし、ちょっとお尻さわられるみたいな事もありましたし、皆の前で徹底的に追い詰められる精神的な攻撃もあって。

もともと軍隊式の教え方をする教師だったのでトイレに行くときにはビッと手を垂直に上げて「いわせあきこ、トイレに行って参ります!」って宣言しないといけないような感じでした。

――:刑務所みたいですね・・・学校や親には言わなかったんですか?

言えないんですよねえ。親も祖父の介護などがあって大変な時期で。私だけじゃなくて何人か特定の子が一度目の敵にされると、もうそこからずっと攻撃を受けていました。小学生って先生の言う事は正しいと思っちゃうじゃないですか。辛かったですね。チックの症状も出て来て、完全にノイローゼのようなに状態になっていました。中学校に進学しても喪失した自信は戻ってきませんでした。もうほんと小学校高学年~中学校は暗黒期ですよ。

――:それが高校受験の失敗につながるんですか?

はい、小4くらいまでは勉強できるほうだったんですけどね。中学に行ってもずっと自信を失ったままで。何やってもダメなんだな自分は、と。今でも覚えてます。当時はラジオで合格者一人一人名前が呼ばれるんですが、名前が呼ばれずガックリと肩を落とした母。実はそのあと自殺しようとしたんですよ。

――:そんなところまで追い詰められたんですか!?普通は私立の高校にいったりしますよね?

そうですね。でもその時の私は「岩瀬家の恥になって、すみません」という気持ちで、自宅の屋上から飛び降りようとしました。ギリギリで止められて、「あ、私このまま逃げたら、ずっと逃げるな」と思って浪人を決めたんです。その担任へのくやしさもありましたし、1年間図書館に通い詰めて勉強しました。

――:でも孤独ですよね。周りは全員高校進学していて、一人ぼっちの受験なんですもんね。

でもある意味吹っ切れたところもあって、高校はむしろ1年アドバンテージもあるし「やればできる」という事を実感できたんです。

それで無事合格してから、高校2年でライオンズクラブが主催する英語弁論大会で優勝し、その副賞として6週間カナダのエドモントンにホームステイさせてもらったあたりが転機でしたね。カナダは何もかも大きくて自由でしたし、本当に楽しかった。

 

■高校・大学で米国生活、メキシコシティで出会った劇団の原点

――:もうその頃には暗黒期を克服しはじめるんですか?

少しずつ自信を取り戻してきてましたね。なんとかちゃんと留学する手段はないかと探し回って、高3のタイミングでもう1年留学するんです。

――:高校も1年遅れて入ったのに、すごい吹っ切れましたね!?

そうですよね笑、もう1年も2年も遅れるのは一緒だという気持ちになっていて、奨学金制度を探していたら、アメリカ人の知人からロータリークラブの交換留学プログラムの事を聞いたんです。それでその人が教えてくれたアメリカのロータリークラブに電話しました。

――:いきなり国際電話?めちゃくちゃ行動力があがってません?

ネットもない時代ですしね。親にも相談せず、結構ドキドキしながら英語で電話すると、宇都宮にもロータリーがあるからそこに聞くのがいいと。それで色々聞きまわって1年間の留学権利を得て、今度はアメリカ・カリフォルニア州のビッグベア・レイクで1年間過ごすんです。それで2年遅れた状態で、高校3年の夏に戻ってきたときは周囲は完全に受験モード一色でした。せっかくなので英語を使って進学したかったんですが、外国語大学などを薦められても私は英語「で」勉強はしたいけど、英語「を」勉強したいわけじゃなかったんですよね。それでそれならもうアメリカの大学に行ってしまおうと。

――:完全にアウトロードを突っ切りはじめてますね。親は止めないものなんですか?

当時は円高だったので、今より米国の学費・生活費が安かったのも幸いしましたね。東京にいって下宿して生活する費用と米国留学の費用を並べて、そこまで変わらないという数字を親にもみせて、まあそれならいいかと折れてもらい、バージニア州の私立大学に進学しました。

アメリカでは一般教養は小さな大学で学び、3年目から総合大学に編入する人が多く、私も3年時に州立大学(The College of William and Mary)の国際関係学部に編入し、卒業しました。途中で欧州や北米を数か月かけてバックパックで旅したりして、都度都度日本に帰ってきてバイトをしてお金を貯めたら、また大学や旅行にというのを繰り返してましたね。

――:当時は将来何になりたいと思ってたんですか?

高校くらいから漠然とNPOや国連で働きたいとか、ジャーナリストになりたい、といったものはありましたが、役者になろうとは思っていなかったですね。役者の道への分岐点になったのは大学4年のときにメキシコの田舎町で児童養護施設のボランティアをしていた時です。現地の劇団が子供たちにお芝居を見せるためにやってきたのですが、それを観ていた子供たちのはじけるような笑顔が忘れられなくて…。

――:ワシントンDCとニューヨークは飛行機で1.5時間くらいですよね。ブロードウェイにも行きましたか?

私が住んでいたバージニア州ウィリアムズバーグからワシントンDCまで車で3時間はかかったので、そんなに気軽に行ける距離ではありませんでしたが、たまたま姉がNYに住んでいたので、行ったときはよくブロードウェイの舞台も見てましたね。その後日本に戻って、派遣としてオフィスワークもしたんです。英語もできたので外資系企業に送られて正社員にならないか、とも言われたんですが、とにかく毎日オフィスに行って机で作業して定時に帰る、というのが体質的に合わなかったんですよ。

そこで思い出したのはメキシコの劇団の記憶。そしてつらかった暗黒時代に、よく宇都宮の名画座で新旧色々な映画をみて慰められていた記憶がよみがえるんです。「こんなふうに自分も人を笑顔にできる仕事ができたら・・・」と思って、そのオフィスワークをやめて(親にも言わずに!)、役者になる人生を選びました。

 

 

■食えない役者の世界でNHKアナウンサーと兼業でわき目もふらずにキャリア邁進

――:思いきりましたね。役者というのは、どちらかというと“ヤクザな道"ですよね。

そうなんですかね(笑)。まぁ、お金を稼ぐためにする仕事ではないですね。まずは老舗の劇団の養成所に2年間通って演技の勉強をしました。米国時代も大学のミュージカルで歌ったり踊ったりしたことはありましたが、演技の勉強はその時がほぼ初めてでした。

――:でも演劇だけでは生活はできませんよね。“生活のための仕事"はどうしていたんですか?

最初はアルバイトをしていましたが、幸い私の場合は英語ができたお陰で、たまたま知人の紹介で知り合ったアナウンサー事務所の方にお声がけいただき、NHKのレポーターのオーディションを受けて、それからラジオ英会話講座とかNHKワールドニュースのキャスターやレポーターなどをやってきました。そちらは「藤本ケイ」という名前で活動しています。

――:なぜ名前を変えて活動するんですか?

役者っていろんなキャラクターになるじゃないですか。それをNHKでアナウンサーをしてる人がこんな役やっている、なんて検索されたら活動の幅が狭まると思ったんです。なのでアナウンサーをやっている藤本ケイと、役者をやっている岩瀬顕子で使い分けてこれまで活動してきました。

でもやっぱり根っこが役者なので、名前・キャラがあるとやりやすいんですよ。「藤本ケイ」になった時はカチッとやるべき役割に切り替えられるので、それはそれでよかったです。

――:じゃあ岩瀬さんは「食えない苦しさ」を味わうところまではいってなかったんですね。

そうですね、私は幸いにして窮地に陥ったことはあまりないですね(自分で主宰の劇団をおこして興行するようになって初めて財政的にはドキドキする状況におかれたこともありますが)。

アナウンサー・キャスターだけでなく国際的なイベントや式典の司会などもしてきたので、そちらの仕事で稼いでは、あまりお金にならない舞台につぎ込んできました。

――:演技の世界は岩瀬さんに向いていたんですか?

向いているかどうかは今もちょっと分からないですね笑。でもこの世界って「楽しいかどうか」なんですよ。続けられているかどうかが分岐点でほとんどの方が途中で辞めてしまうので、自分自身が楽しめて長くやれてきたということが結果的に向いていたということなんだと思います。自分で伝えたいものがあって、それを表現したい。そういう部分は今も変わってませんね。

――:逆に演劇の世界を続けるのを難しい理由はどういうところにあるんですか?

それぞれ事情は違うと思いますが、やっぱり生活できなくなくなって、という人が多い気がします。学校を卒業してそのまま劇団に所属した人たちは、同級生がどんどん就職して出世して家庭をもっていくのを横目で見ていると、役者の生活が楽しいと思えなくなってしまうのではないかと。私の場合、一度事務職をやっていたことが大きいですね。あの世界はどうしたって自分に合わないことがわかっていたので、一切後悔もなかったですし、辞めようと揺れたこともなかったです。

――:でも俳優はまだしも自分で劇団を立ち上げたり、脚本まで書いている人というのは珍しいですよね?

そうですね、役者で脚本も書いている人は比較的少ないかもしれませんね。

 

■自分の劇団を立ち上げ、日米のドラマオーディションに見る芸能界の負

――:2008年にはご自身の劇団「日穏-bion-」(びおん)を立ち上げられます。これは起業みたいなものでしょうか?

劇団と言っても日穏には劇団員がいるわけではなく、私一人でやっているんです。公演があるたびに出演者を集めてプロデュースするので「イベントを続けている」ようなものなんですよね。私は集団の中に長くとどまることがそんなに好きじゃないタイプなので、自分で作って自分で決めて、その都度メンバーを集めて、というサイクルが合っているんですよね。

――:もう役者をして長いキャリアを築かれています。仕事として飽きるといったことはないですか?

飽きないですね。自分とは違う人間になって、違う人生を生きられるのはとても楽しいですよ。シェイクスピア劇で中世のお姫様になったかと思うと、東北出身の場末の娼婦になったり、優しいお母さんの役からうつ病気味の娘まで、色々な役を演じてきました。この役は嫌だな、と思ったこともないです。どんな役でも毎回楽しんで演じています。

――:映画・CMに出ているのと、舞台の演技ってどういうところが違うんですか?

映像だとリアリティへの距離感が違うんですよ。カメラで接写されるので役者自身とかけ離れた役柄って特殊メイクを使わない限りできないんです。舞台だったら例えば80代の俳優が15歳の役で出てきても、お客さんが想像してくれるので成り立つのですが、映像ではそうもいきません。

また演技の部分で言うと、映像では細かい表情までカメラが拾ってくれるので、より繊細な演技が要求されます。逆に舞台ではまず声が届かないといけないとか、別のテクニックが必要になってきますよね。私は普段小劇場で活動しているので、そこまで変える必要はありませんが、帝国劇場とか大きな舞台では大きさに合わせた演技が必要ですよね。

――:あと俳優ってオーディションの度に落とされることが多いじゃないですか?あれって心理的にはずいぶんキツイ仕事なんじゃないですか?

日本でのオーディションってわりと事務所の力関係で決まってるんですよ。だからフリーの私にはオーディションの話はほとんど来ないですね。日本で出ている映像作品は、知り合いが役にハマると思って声をかけてくれるものばかりです。

一方海外のドラマや映画ですと事務所に関係なく情報が回って来るので、まずオーディションを受けられることが嬉しいです。確かに落ちてがっかりすることもありますが、役にハマっているかどうかだけなので、仕方ないと思います。

――:海外作品だと事務所で決まらないんですか?

北米映画やドラマのキャスティングには事務所の力は関係なく、演技の部分だけを見られます。最近はセルフテープと言って、自分で撮影した映像を送るオーディションが主流ですね。その後にコールバックがかかったら実際に監督やプロデューサーとお会いします。オーディションも「この役のこのセリフしゃべってみて」と言われて演技をするだけで、基本的に自己PRなどはありません。でも日本のオーディションは、演技以外の要素も大事なんだなと感じる事が多々ありました。

――:これはまさに今ジャニーズ問題などで問題になっている部分ですよね。事務所のコネもあるし、ある意味映像をつくる責任者側とのパワーバランスで性を売り物にするような瞬間も少なくありません。岩瀬さんもそういう目にあったことは・・・?

若いころはそれっぽいこともありました。九州でロケがあるときになぜか車で一緒にいこうとディレクターに誘われて。飛行機か新幹線じゃないんですか?と聞き返すと、「まあ分かってるよね。途中で一泊していくよ」と言われたり。そういうのは軽やかにかわしてきたほうなので、あまり実被害にあったことはないです。

――:やっぱりそういう点は本当に日本の芸能界の課題ですよね・・・

パワハラ、セクハラは残念ながら多い世界ですね。実は舞台の世界にも多いんですよ。カリスマ性のある演出家が神みたいな扱いを受けている雰囲気の団体もあって。役者ってMっ気が強い人が多いので、いつのまにかパワハラ・セクハラ受けるがまま、みたいな状態も見てきました。

――:岩瀬さんはNHKのお仕事があったからというのもありますが、非常にバランスのいい役者生活ですよね。正直「生活の糧に困りながら自分の生き方を全うする」みたいな昔気質の役者話ばかり聞いてきたからかなり新鮮です。

いやいや、私も決して楽してここまでやってきたわけではないですよ!でも有名になりたいとかテレビに出たいとかいう思いより、演じる事や作品を作る事で観る人に喜んでもらいたいという目的の方が強かったから、それを続けられる環境を作ってきただけです。

――:確かに。ハリウッド映画出演にしても、ミーハーさのなさ、職人性がいまの岩瀬さんを創り上げたんだなと強く感じます。

 

■ドラマセラピー、“文化不毛の地"栃木に演劇文化を根付かせる

――:そうした中で「実際に脚本を書こう」というのは、どういうタイミングでやり始めるんですか?

始めて脚本を書いたのはもう20年くらい前になります。日穏-bion-の演出家で俳優のたんじだいごさんがアップスアカデミーという俳優養成学校で講師をしていて、そこの生徒のために脚本書いてみない?と言われたんです。そこで初めて書いたのが「永井家の八月」という脚本です。

もともとモノを書くのは得意じゃなかったし、学生時代も小論文は好きじゃなくて「私には絶対無理!」と思っていたんですが、脚本って会話なんですよね。だからキャラクターを作って、会話を書いていけばいいんだ!と思えたところから徐々にかけるようになりました。

――:どういうところから創作の種を探すんですか?

初期は戦争を題材にしたものが多かったですね。外国で過ごした学生時代、アメリカ人、韓国人、中国人、ベトナム人など色んな国籍の友人と話す中から、それぞれの教育や戦争観の違いを知って興味を持ったんです。帰国してから、戦場を体験した元兵士の方々に話を聞いてそれを残していく活動を始めました。思い出すのも辛い経験をしている人達が何十年もの時を経て、家族にも言ったことのない話をしてくれるんですよ。だから、私も何とかしてその思いを継承しなければいけないと思って、脚本を書く事にしたんです。

――:それはドキュメンタリー映像で残すものとは異なるんですか?

私はドキュメンタリー作品も好きで良く見るのですが、より多くの人の記憶に残すには、物語を通して感情が動かされることが有効だと思っています。役に共感する事で、自分事として捉えられるようになるのではないでしょうか。

――:僕は岩瀬さんの『オミソ』で物凄く感動したんです。でも映像作品と違ってそれが残らない、というのが残念で。

芝居には芝居の良さがあります。舞台は残らないからいいんですよ。今この瞬間にしか観られない演技を生で観るというのはとても贅沢な時間ですよね。それは役者にとっても同様で、やり直しがきかない緊張感やお客様の反応がダイレクトに伝わる感覚はとても楽しいです。

▲2023年8月 日穏-bion-公演『オミソ』にて。プロデューサー・主演・脚本家の岩瀬氏は左から2番目

 

――:舞台の世界とテレビの世界は近いんでしょうか?

もちろん舞台で演技を鍛えた人がテレビや映画にも出演している事例は多いです。どちらかしかしていない、という人のほうが少ないくらいではないでしょうか。ただひとつ言っておきたいのは、舞台の俳優は将来テレビに出たいからやっているわけではないという事です。よくインタビューなどで、舞台で活動していた時期を「下積み時代」なんて言われることがありますが、それはちょっと失礼な話なんですよね。

――:今後は岩瀬さんはどういうキャリアを描いているんですか?

引き続き自分の想いを舞台や映画を通して伝えていきたいと思っています。日穏-bion-の舞台を楽しみにして下さっているファンの方々が確実に増えていますので、その期待に応えるべく良質な作品を作っていきます。それから、もっともっと海外の仕事もしたいですね。

――:最初に立ち戻りますけど、そういう「伝えたいことがある」というのはやはり小中高時代の記憶があるからでしょうか?負の経験をした人のほうが創作力に優れているなと感じることも多いです。

確かに辛かった経験が脚本に生かされている事はありますよね。それに演じる上でも役に立つことがあり、ずいぶん楽になりました。ドラマセラピーってご存知ですか?演じる事で、もともとおさえていた感情を解放できると、それが結果的にセラピーになるんですよ。ため込むから限界が来て爆発してしまう。うつ病もちょっとずつ自分の感情を外にだしてスッキリする、ということを繰り返しているとだんだん癒えてきたりするそうです。欧米では、医療、福祉、教育といった幅広い分野で実践されている心理療法なんですよ。

――:岩瀬さん、今栃木県人会にも入られていたり、とちぎ未来大使といった公的な活動もされていますが、それも繋がっているのでしょうか?

そうですね、両親もいなくなって帰る理由がなくなってきていたんです。それで栃木という自分の生まれ育った場所ともう一度つながりを深めたいなと思って、東京栃木県人会に入会しました。現在は副会長を務めています。そして2017年に「とちぎ未来大使」に委嘱されました※。さらに二年前には「一般社団法人とちぎ映画演劇文化協議会」を立ち上げました。中山さん、栃木って文化が弱いって感じます?

※とちぎ未来大使:県内外で活躍している方で、栃木県に深い愛着を持ち、とちぎの魅力・実力の対外的情報発信を積極的に行ってくれる方に、知事が「とちぎ未来大使」を委嘱している。

――:え?そうですね・・・たしかに関東圏って東京が強すぎて、周辺の茨城・栃木・群馬って埋没しがちですし関西にくらべて文化が弱いというのは感覚としては思っています。

演劇鑑賞会や市民劇場って、栃木だけ一個もないんですよ。埼玉も群馬も千葉も都内ももちろんあります。昔宇都宮にあったんですがなくなっちゃった。

――:え、そうなんですか?

例えば岡山県だと3,500人くらい会員がいるんです。コロナの影響もあって全国的に会員数は減っているそうですが、それでもほとんどの都道府県にあるのに、故郷の栃木県にないというのは切ないですよね。

――:なるほど!たしかに僕も高校時代まで一度も演劇ってみたことないんですよ。大学で東京に出てきて初めて見ましたね。

日穏-bion-は2017年から4回ほど宇都宮公演をしています。最初は演劇を観た事がないという人がとても多かったのですが、一度観劇した人は次も来てくれるようになって、徐々にお客様が増えています。単に機会がなかっただけなんですよね。だから、今後は演技のワークショップなども行っていくつもりでいます。観るだけじゃなくてやってみるともっと興味を持ってくれると思うので。

栃木の人ってどちらかというと奥ゆかしい人が多いと思うんです。人前で恥かいちゃいけないという感情のブロックがあったり…。そういう人たちには演技のクラスはとても有効なんですよ。他の自治体では学校で演技をクラスに取り入れようという動きが出てきています。ぜひ栃木でも実現させたいですね。「文化不毛の地」だなんて言わせないよう、栃木に演劇文化を根付かせていきたいなと思います。

【告知】岩瀬氏が脚本・主演した「シェアの法則」が東京都推奨映画になった事を受けて、4月5・6日に秋葉原で再上映される。“推奨映画"になることがとてもよく理解できる、 “年齢も職業も国籍もバラバラの個性的な面々が共同生活を営んでいる多様性ある社会"の物語を、教条的でもなく娯楽的に、そして感傷的に味わえる作品だ。<http://bion.jp/?p=4706>

 

会社情報

会社名
Re entertainment
設立
2021年7月
代表者
中山淳雄
直近業績
エンタメ社会学者の中山淳雄氏が海外&事業家&研究者として追求してきた経験をもとに“エンターテイメントの再現性追求”を支援するコンサルティング事業を展開している。
上場区分
未上場
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